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無駄にクソ長い感想文がメイン

藤本タツキ『ルックバック』の千番煎じな感想

昨日Twitter上の話題をかっさらた藤本タツキ先生の読み切り『ルックバック』
考察にも解説にもなりきれない感想です。
ちゃんとした解説や考察はもう巷にとっくにゴロゴロ溢れてるでしょ。
ネタバレあり。むしろネタバレしかしてない。
いつまで無料公開か分からないけれど、作品本編はこちらから。
いつか書籍化してほしいな。これは是非とも紙で味わいたい作品ですね。

感想アップに際して長い言い訳

あまりの衝撃にTwitterでは「すごい」程度しか感想を呟けず。
衝撃を言い訳に一日を漫然と過ごし、誰かと共有したくて、漫画の苦手な母にリンクを送り付け強制的に読ませたりもした。
母から「これ感動したの? よくわからなかった」と返事が来る。
ちなみにわたしが勧めたものに対しての母の感想は大体が「よくわからなかった」だ。完全にわたしの勧めるモノと相手のセレクションが悪い。

しかしまぁ「分からない」と終わってしまっては衝撃と興奮で一日が過ぎた身としては、いささか寂しい。説明せねば、語らねばと鼻息荒く長文LINEを書き始め、いざ送信の前に読み返すと
4,000 字を超えていた。
流石にこれは送れないだろ。
二番煎じどころか千番煎じになってしまうが、納めどころのなかったものとして、ここに置かせてほしい。ちょっと加筆修正として手直したら文量さらに倍に膨れ上がっちゃったけど、まいっか。

はじめに

この作品を語る上で、タイトルの意味に注目する流れと、オマージュ作品を抑える流れがあるように見える。ここでは、前者をメインで進める。後者のオマージュ作品は簡単にタイトルだけさらっておく。

数多の名作映画オマージュ

『ルックバック』は、作者・藤本タツキ氏の映画好きという趣味がアクセル全開になっている作品でもある。
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』、『ラ・ラ・ランド』、『インターステラー』、『母なる証明』、『バタフライ・エフェクト』……(もしかして他にもある?)
同著『チェンソーマン』でも元ネタを探すのが楽しいのだけど、今作ではさらにパワーアップし、名作映画のオマージュシーンが盛り沢山だ。

映画好きの端くれとしては、好物おかず盛り合わせ定食を前に涎ダラダラ状態ではあるけれど、これはその筋うん十年の大将に任せておこう。わたしは客として食べるだけにしておく。

タイトル「ルックバック」の4つの意味

ここからが本題。
『ルックバック』英語にして "Look back" は、作中で4つの意味を持つ言葉だ。
①背中を見て、②過去を見て、③背景を見て、④OASISの名曲『Don't look back in anger』である。
順に追っていこう。

ついでに、名前がこんがらがると良くないので、おさらい。
主人公:藤野
引きこもりの子:京本

① 背中(back)を見て

引きこもりだった京本は、藤野の背中を追って絵を描くようになり、ついに外に出られるようにもなった。藤野の描いていた4コマ漫画に背中を押されたのだ。
実際、高校時代には、藤野自身も京本に「京本も私の背中みて成長するんだなー」と言っている。京本は、この言葉がきっかけとなり、「すっごい作画」の漫画を藤野と一緒に描くために、画力向上を目指し、美大に進む決心をする。

一転、ラストで藤野は、亡くなったはずの京本が贈った4コマ漫画に背中を押され、京本の背中を追うように仕事に励むようになる。
ここで契機となったのは、京本の自室のドア裏に掛けられていたサイン入り羽織りだ。小学校の卒業式の日、2人が初めて出会った日に、京本に頼まれて書いた藤野のサインである。マジックペンで太く書かれた「藤野 歩」本名そのままの決してカッコ良さは無いそのサインを、京本は大学に入ってもなお、いつも見える位置に飾っていたと分かる。
かつての京本が着ていた羽織りの背中を見たことで、藤野は京本との思い出を振り返り、前に進むことができた。京本亡き今、藤野は、自分より先を逝った京本の背中を追い続けるしかないのだ。

② 過去(back)を見て

if世界での京本と藤野

京本の死後、藤野は、自分が京本を外に連れ出したから彼女は死んだのだと自分を責める。あのとき4コマ漫画さえ描かなければ、それを見た京本が外に出ることは無かった。こんな死に方はしていなかったのに。

物語終盤に「もしも2人が学生時代に出会っていなければ」というifのストーリーが挟まれる。2人が出会っていない世界でも、京本は会ったこともない藤野に憧れ、美大に進学していた。事件に合うのは必然だった。そう語られる。
過去を振り返っても何も変わることはない。自分のせいで京本が死んだと自責の念に駆られる藤野にとって、それは救いであり、諦めである。
一連のifシーンは、精神的に追い詰められた藤野が生み出した妄想かもしれないし、実際に京本がタイムリープをして藤野に伝えたメッセージなのかもしれない。しかし、いずれにせよ、過去の選択がなにであれ、結果は同じだ。それが運命の摂理なのだ、と無情にも示される。

一方、if世界での藤野は、京本憧れの漫画家でありつつ、事件当日には京本の命の恩人としてスーパーヒーローの如く登場する。
現実世界での京本は、対人恐怖から外に出れず家の中に籠もりきりの生活だった。京本にとっての生き甲斐は、学年通信に掲載されている藤野作の4コマ漫画だ。生き甲斐のない人生は生命こそあれど、死んだも同然である。藤野の漫画に支えられる日常の中、卒業式の日に突然目の前に現れた憧れの存在は、現実世界でも紛れもなくスーパーヒーローそのものだっただろう。
if世界でも現実世界でも、藤野は京本の命を支えてる存在であったのだ。

思い出す漫画を描く理由

子どもの頃に書いた京本の背中へのサインを再び目にしたことで、藤野は過去を思い出した。
回想の中で「漫画を描くのは好きじゃない」と藤野は語る。
京本は「じゃあなぜ描くの?」と問う。
藤野はそれに答えないが、彼女の目には自分の漫画を、満面の笑みで喜び楽しんでくれる京本の姿が写っている。藤野が漫画を描き続ける理由は、京本がいるからなのだ。

小学生の頃は、京本が自分よりも絵が上手いことが悔しく、勝ちたくて必死で練習し続けた。やがて2人が共作するようになってからは、自分のストーリーを喜んでくれる京本の存在が作り続ける糧となった。
理由は変われど、京本の存在そのものが、藤野が漫画を描く原動力となっていたのだ。過去を振り返り、描く理由を思い出した藤野は、再び机に向かい始めるのだった。

③ 背景(back)を見て

漫画の背景を見て

京本は、藤野のようにストーリー構築はできないが、背景の画力はピカイチだ。
読者が漫画を読むとき、ストーリーやキャラクタービジュアルが真っ先に中心となり、背景の絵はどこか二の次だ。キャラクターを引き立てる意味での背景であり、漫画を語る上での話題としても、どうしても後ろに隠れがちだ。
しかし、漫画において背景の持つ役割は絶大だ。優れた一枚絵は、台詞がなくても読者に伝える力を持つ。
現に『ルックバック』自体も台詞が無いコマやページが多々用いられている。むしろ、台詞のない場面でこそ、最も力強く物語のパワーを放ってすらいるのだ。

一般的に漫画家さんは、背景をアシスタントさんに任せることが多い。おそらく、この精微な背景画も藤本タツキ氏のアシスタントの方々が手掛けているのだろう。メタ的な視点にはなるが、言外に彼らアシスタントへのリスペクトとも取れる。
漫画とはストーリー・キャラクター・背景の全てを合わせた1つの芸術作品である。「背景ももっとよく見てほしい」というメッセージをいち読者のわたしは受け取った。

人物の背景を見て

「背景」という言葉は、風景としての背景の他に、ある人物のバックグラウンド、生い立ちという意味ももつ。
作中で京本を殺害した犯人は、ニュース映像とif世界での事件シーンにのみ登場する。彼の詳しい犯行動機やバックボーンは知り得ない。
これは、現実で日々起こる事件でも同様だ。報道を通して間接的に犯人の断片的な情報を知ることはあっても、その背景まで完全に知ることは不可能なのだ。

作り手と受け取り手の解釈の不一致

作中の犯人は「絵画から自分を罵倒する声が聞こえた」「お前が俺の作品を盗作した(パクった)んだろ」と供述している。前者は明らかな妄言である。
しかし、例えば、絵画内にそのままの暴言が言語として書かれていなかったとしても、暴力性のあるメッセージを込めることは可能だ。時として絵画とは、芸術とは、言葉を使わずしてメッセージを伝えることができてしまうからだ。

それは、小学3年生の藤野と京本にも共通する。
藤野が初めて京本作の4コマ漫画を見たとき、彼女は、京本の繊細かつ圧倒的な画力に言葉を失い衝撃を受ける。その衝撃を原動力に彼女は画力の腕を上げるために、書店に行き、デッサン書を買い、日々机に向かい、練習に明け暮れた。
また、作中で描かれてはいないものの、京本もまた、藤野の描く4コマ漫画のストーリー性・世界観に衝撃を受け、絵を描き始め、4コマ漫画の学年通信への掲載も始める。

言葉を交わしたことも会ったこともない人の描いた漫画によって、彼女たちの価値観は一転し、行動を起こしたのだ。幸いにして、彼女たちの漫画の力はお互いにプラスの影響をもたらした。
否、その漫画をそれぞれがプラスの意味で解釈したと言った方が適切かもしれない。

小学生の京本が描く4コマ漫画は、キャラクターもストーリーも無く、風景画の4連写だ。京本はどんな意味を込めて、どんな感情で描いたのだろうか。
憧れの藤野に見てもらえるかもしれないドキドキとした期待感? 絵が上手いことをみんなに知らしめる高揚感? それとも好意的に受け取ってもらえないかもしれない不安感? 恐怖感?
対人恐怖で引きこもりだった京本が必ずしもプラスの感情で溢れていたとは限らない。もしかしたら、引きこもりのきっかけとなった人物が学年にいたかもしれない。そいつに向けて描いた憎しみだったのかもしれない。例えば、過去にいじめられた場所だとか。
引きこもりの子が、ある日突然みんなに見てもらうために描いた絵なんていくらでもマイナスの解釈が取りうる。

しかし、それを見た藤野は、絵の上手さに悔しさこそあれど、マイナスの感情や行動には至らなかった。それは藤野が、ある意味自分にとって都合のいいようにプラスに捉えたからだ。作者である京本を、単純に自分よりも絵が上手い同級生として認識し、京本の絵を自身の向上心の原動力として利用した。

事件の犯人もまた、絵の持つ力によって犯行という行動を起こしてしまった。彼をそこまで狂わせた絵がどんなものかは分からない。もしかしたら、本当に作り手が暴力性を込めた絵だったのかもしれない。しかし、仮にそうであったとしても、見る側である彼がその絵をどう解釈するか次第だった。

良くも悪くも、作り手の込めたメッセージと、見る側が読み取るメッセージは必ずしも一致しない。

真の背景は当事者にしか分からない

小学3年生の藤野が初めて京本の4コマ漫画を見たとき、彼女は、見たこともない同級生の才能を突然突き付けられた。これまで自分をチヤホヤしてくれていた先生もクラスメイトも、一転して京本を褒めた。自信のあった特技を、他人と比べた上で落とされた。中々な屈辱だ。
あのくらいの年頃だと『私の方が先に4コマを描いていたのに。京本っていう子はそれを真似してきただけ』という思考に陥る可能性も十分ある。藤野本人がいきなりその発想に至らなくても、彼女は友人の多い人気者タイプのようだから、周りの取り巻きの子たちがそういった主張をして藤野を持ち上げて、それに乗せられてしまうケースも存分にありうる。

それは、作中の犯人の「俺の作品を盗作した」という主張に近からず遠くないのではないか。現実はどうであれ、悔しさ、妬み、嫉みは、往々にして屈折した感情をもたらす。

藤野と事件の犯人、同じく絵に魅せられた彼らの違いはなんだったのだろうか。

藤野は、漫画を描くことに関して自信とともにそれ相応のプライドも持っていた。だから、やさぐれず、悔しさをバネにひたむきに絵と向き合うようになった。彼女の性格ゆえだと言ってしまえば、元も子もない。きっとそうなのだろう。でも真実は彼女自身でなくては分からない。

では、犯人は性格が悪かったのか? 精神を病んでいたから。生まれつきの人格破綻者だから。それらしいことなんて、いくらでも言える。いくらでも解釈できる。

藤野と京本の共作関係を完全に理解できるのはおそらく彼女たち自身のみである。2人の出会いから、手を組み、ともに歩んだ製作過程は、外野には解釈はできても分からないことだ。
それは犯人に関しても同様に言える。
彼ら人物の背景を、読者・受け取り手・見る側はいくらでも解釈可能だ。絵画や漫画などの作品に言外のメッセージを自由に読み取ったのと同じように、それこそ妄想の域まで自由に背景を見ることができる。しかし、それは本物の背景を見ているわけではない。いずれも解釈の域を得ない。いつだって彼らの背景を真に知り、理解できるのは、当事者のみである。

OASIS 『Don't Look Back In Anger』

直訳すると「怒りで過去にとらわれるな」になるのかな。ロックバンド oasis の代表曲タイトルだ。
作中では、1頁目の右上に "Don't"、最後の頁の左下に "In Anger" のワードが出てくる。タイトルの "Look Back" と合わせればこの文章になるという訳だ。知ったか顔しているがわたしは気付かなかった。見つけた人すごい。

この曲は、2017年に英・マンチェスターで起きた無差別自爆テロの翌日に、人々が追悼の意を込めて合唱したエピソードでも有名になった。
m.huffingtonpost.jp
もともと聴き馴染みのあった曲だったが、わたしもこのニュースで歌詞の意味とその解釈を知ったひとりだ。意味を気にせず音として流し聞きしてしまうの洋楽あるあるじゃない?
全体では男女の別れがテーマのようだが、歌の終わりでは『君の人生をむちゃくちゃにするようなやつに振り回されるなよ』と語りかけてくる。
なるほど。テロによって文字通り命(LIFE)を奪われ、人生(LIFE)を崩された人々にとって響く言葉だったのは納得だ。

Please don't put your life in the hands
Of a Rock n Roll band
Who'll throw it all away

"Don't Look Back In Anger" OASIS by Noel Gallagher

『ルックバック』が公開されたのは2021年7月19日。
その前日は、2年前に京都アニメーション放火殺人事件が起きた、まさにその日である。
作中で亡くなる子の名前が「京本」であること。
作中で斧を振り回す殺人犯の物言い「絵画から自分を罵倒する声が聞こえた」「お前が俺の作品を盗作した(パクった)んだろ」が京アニ事件の犯人と同じ供述であること。
この作品自体が京アニの事件を扱っていることは明白だ。

事件当時は、犯人の動機や生い立ちなどが連日報道され、様々な憶測を呼んだが、いくら掘り下げようとも、真にそれを理解できるのは当事者たる犯人本人しかいない。

京アニ事件後、生き残ったものの未だに第一線で現場復帰できていないクリエイターがいると聞く。亡くなった被害者の遺族は、アニメーターにさせていなければ亡くならなかったかもしれないのにと自責の念を持ち続けているだろう。
被害者たちは、理解のしようもない犯人に2年経った今もなお人生を乱され続けているのだ。

「あなたの人生をめちゃくちゃにするようなやつに人生を振り回されないで」
「怒りで過去にとらわれ続けないで」
藤本タツキ氏は、彼ら被害者やその遺族に対して、このメッセージを届けたかったのかもしれない。
怒りは持ち続けても、過去に執着をしてはならない。生き残った君が私が過去にどんな選択をしていたとしても、現実は変わらないのだ。運命とはそういうものだから。

残酷だ。安直な綺麗事でもある。この漫画が今日この日に公開された意味はあまりに重い。
Twitter上では、『ルックバック』の作品性の高さを絶賛する声と同時に、批判の声も多く見かける。「部外者である漫画家が勝手に、京アニ事件の当事者たちにどうあるべきかの指針を突き付けた」「実際の事件を感動ポルノに利用するな」と。無理もない。2年の歳月はあまりに短く、物語として消化するには、未だ記憶に生々しすぎる。

一方、メタ的な視点では、こういった批判もまた、芸術、絵、漫画がもつ力に魅せられ、言外の意味を深読みしているに過ぎないのかもしれない。
藤野と京本が互いの漫画に影響されたのと同様、作中の犯人が絵画に影響され犯行を犯したの同様、直接的には言われていないがそう読み取れるという主張だ。そんな、わたしたち読者の感性たるものが、『ルックバック』の中から残酷なメッセージを掘り出し、繋ぎ合わせて、かたちづくり、勝手に不快感を受けてるに過ぎない。

仮に全会一致する意図が見えたとしても、作り手の込めたメッセージと、見る側が読み取るメッセージは必ずしもイコールではない。読み手による解釈の範疇を超えないのだ。

だからこれは、わたしが勝手に引っ張り出した解釈だ。
漫画『ルックバック』は、自身の支えである人物を、理解のできない理不尽な暴力によって亡くしたとしても、クリエイターは作品を作り続けるしかないのだ、という1人のクリエイターとしての藤本タツキ氏による強いメッセージが滲み出ている。
物語は、我々に背を向け1人漫画と向き合う藤野の姿で終わっている。京アニ事件で人生をむちゃくちゃにされた人たちに、この藤野の背中を見てほしかったのだろう。